統計がない、ひきこもりの家庭内暴力

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「死ね、死ね」と包丁を畳につき立てる母親

同居を再開してから、2カ月経った頃。

母親の側にも、ある変化が起きていました。

隆英君と離れて自分の部屋にひとりでいる時、彼女もまた包丁を手にしていたのです。

「死ね、死ね」

そう言いながら母親は、畳に包丁をつき立て、何度も何度も切りつけていました。
心の中で、見えない隆英君を刺し殺していたといいます。

「こうしないと、夜眠れないんです」

面談の時、母親は私に向かってそう言いました。
日常的に隆英君に脅されていた母親は、そうやって包丁でも振り回さないと、気が済まなかったのです。
空想の中だけでも息子を殺さないと、精神の安定が保てないところまできていたのです。

彼女が私たちのところに来たのは、ここまで事態が煮詰まってからでした。

「息子を殺してしまおうと思ったこともあります」

母親は、正直な気持ちを打ち明けてくれました。

「このままでは、いつか本当に息子を殺してしまうかもしれません。
衝動的にやってしまいかねないのです。
だから一日も早く、息子を連れていってください。
お願いします」

最後にまた、母親は涙ながらにそう訴えました。

想像してみてください。
2DKのマンションに住む母と子が、それぞれ自分の部屋に包丁を持ち込んでいる。
息子はそれで母親を脅し、母親は空想の息子を何度も刺し殺している。

まさに、一触即発の状態でした。いつ何が起きてもおかしくない。

その頃になると、母親は隆英君の下着を洗濯する時には、手袋をはめなければ洗濯ができなくなっていたといいます。

自分の産んだ子供なのに情けない―そう思いはするけれど、どうしようもない嫌悪感があったようです。
直に息子の下着に触ると、鳥肌が立つまでになっていたのです。

家庭内暴力の最中にあると、実の親子でもこうなってしまうのは、よくあることです。
それは構造の問題であって、母親の性格がことさら冷たい、ということではありません。

「別にあなたが悪いわけでも、息子さんが悪いわけでもありませんよ。
たまたま偶然に、いまそういう関係になってしまっているだけですよ」

私がそう言った時の母親の嬉しそうな顔――それはいまでも忘れることができません。
ものすごく嬉しそうな笑顔で、私の手を強く握るのです。
彼女も心の中で、息子を毛嫌いする自分を強く責めていたのでしょう。

だからこの言葉に、救われた気持ちがあったのだと思います。

家庭内暴力の実数は把握できない

こうした隆英君の例のような、事件になる一歩手前の相談を、私たちはこれまで100件以上受けてきました。

そのうち10件以上は、私たちが間に入らなければ、間違いなく家庭内で殺人事件が発生していたと思われるようなケースでした。
それほど子供の暴力はひどく、親にはなす術がなく、親子の関係はねじれ、どうしようもないところまでいっていたのです。

しかし、未然に防いだといっても、たかが10数件です。

私たちが一人ひとり親御さんに対応している間に、全国のあちらこちらで子供が親を殺す事件が、あるいは親が子供を殺す事件が頻発しています。
事件には至らなくても、いつそれに発展してもおかしくないような暴力が、全国の家庭に蔓延している。

家庭内暴力に関しては、残念ながら、その実数を示した正確な統計は存在しません。

もちろん警察庁は『警察白書』の中で、その数を発表しています。
たとえば、平成17年度に起こった19歳以下の青少年による家庭内暴力は、1275件となっている。

だけど、まず「19歳以下」という定義が、実状にあっていません。

私たちが相談される家庭内暴力をふるっている若者のほとんどは、20代か30代です。

それでも、彼らはすでに19歳を超えているため、「19歳以下の青少年による」という警察庁の統計からは、はずれてしまいます。

それに、そもそも家庭内暴力というのは、冒頭でも少し触れたように、よほどの事態にまでならない限り、親は外部には相談しません。
家族の中で、家族だけで解決しようとする。そのためなかなか表沙汰にはならない。

だから、統計に数字としてあらわれているのは、氷山のほんの一角にすぎません。
先ほどの隆英君のようなひどい家庭内暴力でも、母親は警察に介入を頼んでいないわけです。
だから統計には、もちろん含まれていません。

つまり、いま日本でどのくらいの家庭内暴力が起こっているか、その正確な件数は把握しようがないのです。

世間の誰も知らないところで、暴力は密かに進行している。

家庭という「密室」、閉ざされた家族の中で、何組の親子が悲鳴をあげているのです。

「暴力は親に向かう ~いま明かされる家庭内暴力の実態」二神能基著 2007年1月26日刊行 より

このテキストは株式会社東洋経済新報社(以下「出版社」という)から刊行されている書籍「暴力は親に向かう ~いま明かされる家庭内暴力の実態」について、出版社から特別に許諾を得て公開しているものです。本書籍の全部または一部を出版社の許諾なく利用することは、法律により禁じられています。

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執筆者 : 二神 能基(ふたがみ のうき)

二神能基

認定NPO法人ニュースタート事務局理事。1943年生まれ、早稲田大学政治経済学部卒。1994年より「ニュースタート事務局」として活動開始。千葉県子どもと親のサポートセンター運営委員、文部科学省「若者の居場所づくり」企画会議委員などを歴任。現在も講演会やメディアへの出演を行う。

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